聖書に忠実に広めようとしているキリスト教徒たちの存在
交差点で見かけたキリスト教布教の看板。
雰囲気から決してここ数百年にできた
新興宗教系の宗派ではなく
長く続いている団体のものと思われる。

記述の一部にはアラビア語風の文字。
ペルシャ語なども同じような文字を使うらしい。
学んでいないものには皆同じにみえる。

単純に考えると、
イスラム教徒にもキリスト教を布教しようという意欲を感じる。
そう言えば、イランで育ったアフガニスタン人難民女性は
ドイツ難民手続き時に係員に尋ねられたそうだ。
「キリスト教に改宗する気はないですか」
それは驚きだ。
住む国によってころころと宗教をお気軽に
変えるような信仰心をドイツでは求めているのだろうか。
そんなことは不可能であることを
半世紀以上前から
トルコ人労働力に頼ってきたドイツが知らぬはずはない。
ある意味、キリスト教徒を増やしたいという
ちょっとした宣伝の意味も込めてその係員は
キリスト教を勧めてみたのかも。
キリストは「あらゆる場所に行ってこの福音を伝えなさい」と
と教えたそうだ。
新興宗教系キリスト教は忠実にそれを守っていて、
街角に立って釣竿を下ろしているような
雰囲気を漂わせている。

それほど人の時間を使えない普通のキリスト教は
看板などで布教活動を地道に続けている。
下のほうに「無料で聖書をお分けします」とある。
いまだに紙の聖書を配る活動があるのか。
今や携帯電話でお気軽にダウンロード、
アプリで「聖書クイズ」などもあるんじゃあないか。
昔、欧州のキリスト教徒は減り続け、
イスラム教徒が激増していると読んだ。
それは現在も同じだろう。
イスラムが積極的な布教活動をしなくても
広まっているのは、広まっているのではなく、
信仰する人が移住し、その移住先で
イスラム教徒と換算されているからだ。
また、イスラム教はキリスト教ほど
理解するのに難しくなく、比較的単純なところも魅力がある。
三位一体とか、処女懐胎とか
処刑されてから甦ったとか、
普段の生活ではなかなか遭遇できない
理解しがたいものを信じれば救われるのは
ある意味拷問だ。
対して、イスラムは生活様式そのものが
信仰を表すもので、実に簡単にも思える。
日に5回のお祈り、
1年に一度の一か月の日中の断食、
食べていい物、悪い物、
女性の理想的な服装など、
形を整えればいいという単純さ。
もちろん、信仰がなければやっていられない、
ということも付け加えておこう。
数年ほど親しくしていたマレー系マレーシア人とは
ぱったりと連絡をしなくなった。
彼女と会うたびに
ドイツ社会やキリスト教を批判する発言を彼女から聞かされて
うんざりしていたんだ。
彼女の旦那さんは彼女との婚姻をきっかけに
イスラム教に改宗したドイツ人だ。
彼もまた、ドイツやキリスト教を嘆いている。
ちゃんと聖書も読んでいて
「こんなものを信仰するなんて!
やはりイスラムがすばらしい」
という意見も聴いている。

そういうわけで、看板の宣伝も
イスラム教徒たちがさらに
イスラムの素晴らしさを確認するために
聖書を読むきっかけになってしまうかもしれない。
ついでにこれも。

私は今までのドイツ生活で
ユダヤ教徒に会ったことがない。
テレビで「イスラエルから戻ってきた」
という人を見たことがあったが最初で最後。
雰囲気から決してここ数百年にできた
新興宗教系の宗派ではなく
長く続いている団体のものと思われる。

記述の一部にはアラビア語風の文字。
ペルシャ語なども同じような文字を使うらしい。
学んでいないものには皆同じにみえる。

単純に考えると、
イスラム教徒にもキリスト教を布教しようという意欲を感じる。
そう言えば、イランで育ったアフガニスタン人難民女性は
ドイツ難民手続き時に係員に尋ねられたそうだ。
「キリスト教に改宗する気はないですか」
それは驚きだ。
住む国によってころころと宗教をお気軽に
変えるような信仰心をドイツでは求めているのだろうか。
そんなことは不可能であることを
半世紀以上前から
トルコ人労働力に頼ってきたドイツが知らぬはずはない。
ある意味、キリスト教徒を増やしたいという
ちょっとした宣伝の意味も込めてその係員は
キリスト教を勧めてみたのかも。
キリストは「あらゆる場所に行ってこの福音を伝えなさい」と
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新興宗教系キリスト教は忠実にそれを守っていて、
街角に立って釣竿を下ろしているような
雰囲気を漂わせている。
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それほど人の時間を使えない普通のキリスト教は
看板などで布教活動を地道に続けている。
下のほうに「無料で聖書をお分けします」とある。
いまだに紙の聖書を配る活動があるのか。
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昔、欧州のキリスト教徒は減り続け、
イスラム教徒が激増していると読んだ。
それは現在も同じだろう。
イスラムが積極的な布教活動をしなくても
広まっているのは、広まっているのではなく、
信仰する人が移住し、その移住先で
イスラム教徒と換算されているからだ。
また、イスラム教はキリスト教ほど
理解するのに難しくなく、比較的単純なところも魅力がある。
三位一体とか、処女懐胎とか
処刑されてから甦ったとか、
普段の生活ではなかなか遭遇できない
理解しがたいものを信じれば救われるのは
ある意味拷問だ。
対して、イスラムは生活様式そのものが
信仰を表すもので、実に簡単にも思える。
日に5回のお祈り、
1年に一度の一か月の日中の断食、
食べていい物、悪い物、
女性の理想的な服装など、
形を整えればいいという単純さ。
もちろん、信仰がなければやっていられない、
ということも付け加えておこう。
数年ほど親しくしていたマレー系マレーシア人とは
ぱったりと連絡をしなくなった。
彼女と会うたびに
ドイツ社会やキリスト教を批判する発言を彼女から聞かされて
うんざりしていたんだ。
彼女の旦那さんは彼女との婚姻をきっかけに
イスラム教に改宗したドイツ人だ。
彼もまた、ドイツやキリスト教を嘆いている。
ちゃんと聖書も読んでいて
「こんなものを信仰するなんて!
やはりイスラムがすばらしい」
という意見も聴いている。
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イスラム教徒たちがさらに
イスラムの素晴らしさを確認するために
聖書を読むきっかけになってしまうかもしれない。
ついでにこれも。
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私は今までのドイツ生活で
ユダヤ教徒に会ったことがない。
テレビで「イスラエルから戻ってきた」
という人を見たことがあったが最初で最後。
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それぞれ状況違っておもしろいです。
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